寺号である『西幸寺』は後醍醐天皇とのご縁から
今より遡る事およそ700年前の鎌倉時代、当山西幸寺は、現在の場所より2キロメートルほど北の、石井村(現兵庫区石井町)の辺りにありました。
当時はまだ「西幸寺」ではなく、「文塔寺」という寺号を用いておりました。
また、その辺りの地名を下司名(げじみょう)といい、この地名を山号とし、「下司名山(げしめざん)文塔寺」としたのが、西幸寺の始まりです。
そして元弘2年(1332)後醍醐天皇が、ときの幕府のために流され、京都から隠峡島へと行幸(天皇が外出されること)されるときに、文塔寺に一夜の宿をおとりになりました。
そこで、後醍醐天皇が西へと行幸されたときのご宿泊のご縁を記念し、新たに「西幸寺」と名付けられました。
当時のことを『増鏡』(南北朝時代の歴史物語)には、次のように記されております。
「元弘二年三月のはじめ七日に、都を出でさせ給ひ~中略~その日は津の国、昆陽野の宿と云う所に着かせ給ひ、翌日は湊川の宿につかせ給ふ」
ここに記されている湊川の宿というのが、当時石井村の辺りにありました文塔寺です。
時は流れ、天正9年(1581)安土桃山時代、現在の兵庫区中之島に兵庫城が築かれ、城を中心に城下町も形成されました。この頃に西幸寺は、石井村から現在の場所へと移転しております。
移転の正確な年月は不明ですが、慶長15年9月の『片桐市正郷改 兵庫寺庵屋敷分御免許控帳』という古い文書の中に、
「文塔寺屋敷分事 三畝廿歩 四斗七升八合 下司名」
とあり、慶長15年(1610)にはすでに兵庫津西宮内町(現兵庫区兵庫町)に移っていたことが分かります。
この文書には、「文塔寺」という寺号で書かれておりますから、当時はまだ「西幸寺」は通称で、正式な寺号としては「文塔寺」が用いられておりました。
それが徐々に、通称である「西幸寺」の方が世間に浸透していき、やがて正式名称として使われるようになりました。
西幸寺は、鎌倉時代から700年、この地に移ってから400年以上の歴史になります。初世住職〈釋浄了〉から現二十三世住職〈釋良文〉まで、代々このお寺を預からせて頂いております。
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